「Googleの衝撃」より強かった「インドの衝撃」

ご存じNHKスペシャルのお話だが、今回の方が僕にとって衝撃的だった。と言っても何か新しい内容があったか?と聞かれると困ってしまうのだが、現実をひしひしと感じてしまった。現実とはDFドラッカーの言う知識社会がすでに自分の周りに来ているということだ。
さて、知識社会の前の工業社会も、そのパワーの源泉は知識とかノウハウであった。
例えば自動車産業では設計図という情報だけでは車は出来ない。それを具現化する鉄鋼・金型といった周辺技術(これ自体もまたノウハウ)が必要であり、それがまた設計にフィードバックされる。つまり、ある知識(技術)単体では発展することはなく、周辺の様々な技術との組み合わせで産業となる。よって技術的にも資本的にも発展途上国がおいそれと手を出せるものではなかったのだ。
しかし、ソフトウェア産業はパソコンとネットワークさえあればインフラはOK。あとはヒトの脳だけで価値を生み出すことができる。
中国の経済が急速に発展しているとはいえ、自動車産業が日本に追いつくには10年、長ければ20年近くかかるのではないかと言われている。しかし、ソフトウェアに関しては最近台頭してきたと思ったら、あっと間にインドに水をあけられてしまった。そう、先進国のアドバンテージが全然ないのである。

フラット化する社会

かつては日本人やアメリカ人やヨーロッパ人というだけで、(世界的な水準で見れば)無条件に豊かな暮しが保証されていた。しかし、それは今や通用しない。労働市場グローバル化は単純労働者だけに留まらず、知識労働者も巻き込んでしまった。なぜなら、これまでのように発展途上国が「貧困→技術を習得できない→貧困」というスパイラルでとどまってくれたりしないのだ。例えて言うなら今まで自分だけが高価で速いマシンでレースをしていたのに、いつのまにかみんながそのマシンを手に入れてしまい、ワンメイクレースのようになってしまったようなものだ。